すいもあまいも

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転んでもタダでは起きるな

決裁文書の書き換えを巡り、会計検査院は12日、野党の会合で「財務省から提出された書類は基本的に書き換え後のものだった」と説明し「2種類の文書が存在することには検査中から気付いていた」と明らかにした。

https://this.kiji.is/345810772180468833

報道を見た瞬間に天を仰いだ。そして、この上ない怒りと、絶望にも似た悲しみが込み上げた。

会計検査院」は日本国憲法(以下「憲法」と記す)第九十条、および「会計検査院法」によって定められた組織だ。そこにはこう記されている。

日本国憲法

第七章 財政

〔会計検査〕

第九十条 国の収入支出の決算は、すべて毎年会計検査院がこれを検査し、内閣は、次の年度に、その検査報告とともに、これを国会に提出しなければならない。

2 会計検査院の組織及び権限は、法律でこれを定める。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION#249

会計検査院法

第一章 組 織

第一節 総 則

第一条 会計検査院は、内閣に対し独立の地位を有する。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000073

 憲法にその記載があり、しかも会計検査院法に「内閣に対し独立の地位を有する」とまで記載されている、強く確固とした権限を持っているはずの会計検査院が、法規を踏み外した。ありえてはならない。しかし現にあったというのだ。受け止めなければならない。その上で考える必要がある。

 会計検査院によるチェックが働いていないことが分かった今、公文書の真正性は失われたと言っていい。そして、公文書の真正性を前提としなければならない、国会でのあらゆる議論は、もはや空虚だ。

 公文書の真正性は憲政の根幹だ。それが今、危機に瀕している。全ての国民がバカにされている。私も、私が票を投じた国会議員候補も、私じゃない誰かも、そしてその誰かが票を投じた候補もだ。この日本国に集う全ての民とその代表者が、ただ一人の例外もなくバカにされている。こんなふざけたことがあるか。あってたまるか。

 なぜ公文書の真正性が憲政の根幹なのか。それは、私たち国民は事実しか合意しえないからだ。事実の合意は、主義も主張も信義も信念も異なる、決して一枚岩でない我ら民草が、それでも互いに妥協点を見つけて同じ国家の下で共に生きていくために必要な、最低限にして決して譲ってはならないラインだ。そして国家が事実を為すための手段が、公務員が作成する文書、すなわち公文書だ。いつどこで誰が何と言った、という記録の、どこそこという国家機関がいついつに作成した文書が存在すること。このうち「文書が存在すること」そのものは、眼前に物質としてある文書を見れば万人が合意できる事実だ。そして真正性は「いつどこで誰が何と言った」という記録や「どこそこという国家機関がいついつに作成した」というメタ記録が主張通りの事実であるとして見なしてよい、という性質だ。

 公文書の真正性は憲法や法律によって定められた手続きによって、そしてその手続きによってのみ、保証される。会計検査院とて例外ではない。「公文書等の管理に関する法律」は以下のように定めている。

公文書等の管理に関する法律

第一章 総則

(目的)

第一条 この法律は、国及び独立行政法人等の諸活動や歴史的事実の記録である公文書等が、健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用し得るものであることにかんがみ、国民主権の理念にのっとり、公文書等の管理に関する基本的事項を定めること等により、行政文書等の適正な管理、歴史公文書等の適切な保存及び利用等を図り、もって行政が適正かつ効率的に運営されるようにするとともに、国及び独立行政法人等の有するその諸活動を現在及び将来の国民に説明する責務が全うされるようにすることを目的とする。

(定義)

第二条 この法律において「行政機関」とは、次に掲げる機関をいう。

〔中略〕

六 会計検査院

第二章 行政文書の管理

第一節 文書の作成

第四条 行政機関の職員は、第一条の目的の達成に資するため、当該行政機関における経緯も含めた意思決定に至る過程並びに当該行政機関の事務及び事業の実績を合理的に跡付け、又は検証することができるよう、処理に係る事案が軽微なものである場合を除き、次に掲げる事項その他の事項について、文書を作成しなければならない。

一 法令の制定又は改廃及びその経緯

二 前号に定めるもののほか、閣議、関係行政機関の長で構成される会議又は省議(これらに準ずるものを含む。)の決定又は了解及びその経緯

三 複数の行政機関による申合せ又は他の行政機関若しくは地方公共団体に対して示す基準の設定及びその経緯

四 個人又は法人の権利義務の得喪及びその経緯

五 職員の人事に関する事項

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=421AC0000000066&openerCode=1

 公文書の真正性が失われた今、国家の全ての事実は、国権の最高機関たる国会によって、そしてそれによってのみしか為し得ない。そのための手段が「議院の国政調査権」(憲法第六十二条)であり、その手続きである「証人喚問」を定めた法律が「議院証言法」だ。

日本国憲法

第四章 国会

第四十一条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。

第六十二条 両議院は、各々国政に関する調査を行ひ、これに関して、証人の出頭及び証言並びに記録の提出を要求することができる。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=321CONSTITUTION#116

議院における証人の宣誓及び証言等に関する法律

第一条 各議院から、議案その他の審査又は国政に関する調査のため、証人として出頭及び証言又は書類の提出(提示を含むものとする。以下同じ。)を求められたときは、この法律に別段の定めのある場合を除いて、何人でも、これに応じなければならない。

http://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC1000000225#1

 「全国民を代表する選挙された議員」たる国会議員憲法第四十三条)が、法が定める正当な手続きの下で集めた証言や書類といった事実は、行政や司法から独立して、主権者たる全国民が、そして全国民こそが集めた事実として正当化される。この点については、日本国という憲政の下に集う全国民が合意しなければ話が進まない。

 だが、手続きについて全国民が合意できたとしても、集めた事実の真正性が保証されるまでは、おそらくとてつもなく長い時間がかかるだろう。なんせ公文書の真正性が失われているのだ。虚偽の陳述に対する刑罰という縛りがあるとはいえ、証人による証言や書類の真正性が何の検証もなく保証される道理などどこにもない。これらはひとつの例外もなく、まず虚偽だと疑ってかからなければならない。Five Whys ですら生ぬるい。疑獄は既に顕現している。

 国権の最高機関たる国会は、利害関係者を一人も残さず全て証人喚問するべきだ。集めた事実を全て突き合わせ、矛盾がないか念入りに検証し、矛盾があれば何度でも証人喚問して事実を集め、これらを無矛盾になるまで繰り返すべきだ。そして、疑いに疑った果てに疑えなくなった事実を、真正と見なすほかない。さもなくば全ての国民が事実を見誤る。事実を見誤れば、国家という統治システムが、そして全ての国民が死に向かう。控えめに言っても、いい方向に向かうことは決してありえない。

 そして、もはや私たちは「真実」(比較せよ:事実)などというものは求めるべきではない。そもそも、真実とは決して求め得るものではないのだ。私たちの目の前には事実しかなく、私たちは事実しか合意しえず、そして国家の事実は憲政の正当な手続きの下で、そしてそれによってしか為し得ない。その事実でさえも、今は遠く得がたいものになっているのだ。

 今、国会が全力で為すべきことは憲政の回復だ、と私は考える。憲法第九十条が定める会計検査の手続きを未来の公務員が踏み外すことがないよう、原因を徹底的に究明し、再発防止のために必要十分な「パッチ適用」をすることだ。明文化された法は言ってみればプログラムコードだ。そして憲法というコードは私たちとその子孫がなす国家統治に再現可能性という強さをもたらす、国家百年の計の礎だ。私たち人間はいつか必ず死ぬ。一切の例外なく死ぬ。それでも私たちは、私たち自身と次代の子孫の幸福を願って、いつの時代に誰が国権を担おうとも正当な国家統治が為されるよう、再現可能性を持った憲政という統治システムを、この地上にこれまで生きてきて死んでいった全ての者たちによる事実の蓄積の果てに、人類普遍の原理として、獲得したのではなかったのか。そして過ちが起きたとしても国家を再起動して漸進的に強固にできるよう、明文化された法規にパッチを当てられるようにして統治システムのバグを修正できるようにしたのではなかったのか。今やらなければ将来百年の日本国に必ずや禍根を残す。現在の状況がどのような結末を迎えたとしても、明文法によるバグ修正が為されなければ、いつか必ず再発する。必ずだ。そのようなことがあってはならない。

 ここにおいて党派性はもはや何の役にも立たない。繰り返しになるが、主義も主張も信義も信念も異なる全国民が合意できるのは、事実と、その手続きたる憲政のみだ。あらゆる党派性は我々の目に曇りガラスをかけ、予断を誘い、必ずや事実を見誤らせるだろう。我々の前には、日本国民の寄る辺たる日本国憲法による憲政か、それ以外か、この二つの選択肢しかない。私は憲政を選択する。当然だ。当然と言い切らなければならない。そして私は、主権者たる日本国民ひとりひとりが、私たちと私たちの子孫のために、国家の名誉にかけ、己が真善美に基づき、自らに由って、憲政を選択してくれることを祈ってやまない。

 俺のオトンやオカンが、俺のじいちゃんやばあちゃんが、俺が愛して愛したくて信じて信じぬきたくてやまない全ての人が、いつの時代も絶え間ない困難の中で必死に生き延びて積み重ねてきた全てのものが、足元から融けていく恐怖を覚えている。それと同時に、こんなクソのような大規模障害を再発防止するために、憲法を含む法規にパッチを当てることができる、日本国にとってまたとないチャンスだとも思っている。いや、思わなければやっていられない。「ピンチはチャンス」などとよく言うが、そもそもピンチなんて起きるよりは起きない方がよっぽどマシだ。「転んでもタダでは起きるな」がより正しいと言えよう。ホントにふざけるな。ふざけるなとしか言いようがない。こんなの、絶対にタダで起きてたまるか!